10件のコメント

  1. たぬき通信はこのところ、大室天皇の一件を〔5〕で締め切りしております。
    続きを読みたい方は落合莞爾noteEにてご覧ください。
        タヌキ庵主人白頭狸 敬白

  2. 明治維新に当り、新天皇として睦仁皇太子に替って大室寅助が選ばれたのはそれなりの理由がある筈です。
    これについて門人鍋島直亮さんから問題提起があったので、白頭狸NOTE のかたちで七回にわたり私見を発表してまいりましたが。ここでは〔5〕までで止めております。
    問題提起者の鍋島NOTEは好調だそうですが、白頭狸NOTE の読者は期待に反して極めて少なく、〔1〕がいまだに回数二十回で〔6〕が八回とは情けなく、無力感で焦燥しております。
    そうした中で今時大枚の投げ銭を下さった旦那に、浅学菲才の狸はご厚情に感泣いたしております。
    どうか皆さま、せめてご友人に呼びかけられて、一人でも多く御覧いただくとともに、薄運の狸にご支援を賜りますよう厚顔ながらお願い申し上げる所存でござりまする。
        三拝合掌  中観派沙彌 南光房爾應

  3.  〔5〕大室寅助が選ばれた理由 令和四年五月三十一日
      承前
     以上みてきたところからすれば、政体天皇が御花園系から閑院宮系に交替した時期は一七八〇年の光格天皇即位と観るのが妥当であるが、この計画が実行に移されたのは早くも十八世紀の初頭で、一七〇四年生まれの東山天皇の皇子直仁親王とされた欧州大塔宮の公子が、一七一〇年に新井白石の建議によって永世親王閑院宮を創設したことを以て実行に移されたのである。
     その公子の素性が問題であるが、欧州大塔宮(護良親王の王子王孫で欧州へ渡った者の子孫)であることは間違いなく、現ベルギー王室の祖となったヨハン・エルンスト四世(1658~1729)か、ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公フリードリヒ二世(1676~1732)あたりの公子と観ることになろう。
     政体天皇の閑院宮系への交替を図った國體天皇はどなたであったか。院政期には上皇(治天の君)が任じた國體天皇の役割を、南北朝合一後は永世親王伏見殿の代々が果たしてきたが、時宜により上皇が乗り出すこともあった。
     朝廷と将軍秀忠の間に軋轢が生じた江戸初期には、寛永六(1629)年に灸治療を口実に徳川和子の産んだ興子(明正天皇)に突如譲位し、以後も後光明→後西→霊元と都合四人の子女を皇位に就けて、自らは上皇として君臨した後水尾天皇(1596~1680)に國體天皇の雰囲気が漂うが、譲位時の伏見殿は貞清親王(1594~1654)で、同年配の後水尾天皇と相謀って譲位を企てたものと思われる。
     後水尾の皇子霊元上皇(1654~1732)には世に伝わらない秘事として享保十(一七二五)年に将軍吉宗と公武合体の談合をした確実な証拠がある。時の伏見殿十五代貞建親王(1701~1754)は霊元上皇の外孫で、これだけの重大事を進めたのは霊元上皇と観るしかない。
     公武合体計画に先行して欧州で欧州大塔宮の一員を日本へ戻す計画が建てられていた。これはワンワールド東極の國體天皇に任じた十三代伏見殿貞致親王(1632~1694)と十四代邦永親王(1676~1726)の父子の要請を受けたワンワールド西極の國體ハプスブル大公家の当主レオポルド一世(1640~1705)が、ザクセン・コーブルク公らと謀って実行したのである。
     因みにハプスブルク大公については拙著『日本皇統が創めたハプスブルク大公家』(2017年刊)に詳述してある。(続く)

  4. 〔4〕大室寅助が選ばれた理由 令和四年五月三十一日
     承前
     右のごとき経緯で始まった光格王朝は、仁孝天皇を経て孝明天皇に至り大政奉還により明治維新を迎えるが、これもとよりワンワールド國體が建てた一大計画たる「堀川政略」の一部である。
     さて、しばしば「國體天皇」という言葉を用いるわたしが、その度に忸怩たる思いがあるのは、國體ではそれに該当する地位、すなわち総覧者に正式名称が存在しないからである。
     国家社会の双分制、すなわち政体首長としての天皇と國體を総覧する天皇が別の人格であることは、すでに欠史八代(二代綏靖から九代孝霊まで)の皇統系図からも窺えるから、これを人類本然の姿と観て然るべきデあろう。
     眼前の社会の運営に任ずる政体の機能は法律によって整序さるべきで職能分担・命令系統などを律令によって規定するが、社会運行の調整を旨とする國體は臨機応変に対処し、実行計画は過去の成功例を基準として建てるという。
     さて後醍醐天皇と後伏見天皇が双生児だったことは皇室最大の厳秘事項で、わたしが初めて明らかにするが、ここに始まる南北朝と欧州國體の真相は余りにも複雑であるから、拙著『日本皇統が創めたハプスブルク大公家』三四二頁から三五二頁を参照して頂きたい。(注・
    三四二頁の表は誤っていて、後醍醐天皇の皇子たる後村上天皇と懐良親王を後醍醐天皇の弟としている)
     これで判るように、伏見宮三代(実質は初代)の貞成親王(1372~1456)の第一皇子彦仁親王が即位し御花園天皇となり、同時に永世親王伏見宮を継いだ第二皇子貞常親王が國體天皇ともいうべき地位に就き、以後幕末の伏見宮邦家親王まで伏見宮の当代が國體を総覧していたのである。
     伏見宮の代々が任じていた國體首脳の一角に閑院宮系が加わるのは仁孝天皇の代である。閑院宮皇統はドイツ(ベルギー)から来た直仁親王を太祖とし、典仁親王(慶光院太政天皇)→光格→仁孝→孝明と続く。
     仁孝天皇に長仁親王という弟がいた。つまり孝明天皇に叔父がおられ、清華家の中山家に入って忠尹と称したことはこれまで厳秘とされていたが、わたしが初めて明らかにする。
     忠尹の子が世界史的な大仕事の堀川政略を仕切った中山忠能(1809~1888)である。清華家の中山家に入れられて権大納言となり摂家の下風に立つのはもとより予定の行動で、五摂家はいわば忠能を隠蔽する役割を与えられたのである。
     中山忠能が光格天皇の皇孫で孝明の従兄であった経緯と詳細は拙著『天皇と黄金ファンド』(平成二十八年刊)に述べたのでここは省くが、孝明天皇の典侍として皇太子睦仁親王の生母となられた中山慶子は忠能の娘であるから、光格皇統に属するいとこ違いの間にできた睦仁親王すなわち堀川殿が、伏見宮邦家親王の跡の國體天皇になったことで、國體天皇は閑院宮系に移ったのである。(続く)

  5. 〔3〕大室寅助が選ばれた理由 令和四年五月三十日
     承前
     東山天皇の第六子直仁親王(1704~1753)は永世親王閑院宮家の始祖であるが、この方は、実はベルギー王室から皇統に入られたのである。現在のベルギー王国の王室はザクセン=コーブルク=ゴータ家であるが、その淵源は一六七五年に死去した領邦君主ザクセン=ゴータ公エルンスト一世の末子ヨハン・エルンスト四世(1658~1729)で、一六九九年に後継者の無いままに死去したザクセン=コーブルク公アルブレヒト五世の所領を受け継いだものである。
     直仁親王の誕生が一七〇四年ならば、右の渦中で生じたわけで、その間の事情など日本では知るよすがもないが、ワンワールド國體の東西両極にその伝承があることは間違いない。南北朝時代に渡欧した大塔宮護良親王の王子から始まるこの家の男子は今日でも日本天皇の皇位継承権を持っているのである。
     これに反し、目下女性天皇論の中で話題の旧宮家には幕末期に後南朝が混入したことから皇位継承権を有しない家もあり、このことを夢にも知らぬ地下の衆が騒ぐのはやむを得ないのである。因みに「後南朝」とは、護良親王の兄弟の末裔を、護良親王の末裔たる「南朝」と区別するための謂いである。
     ともかく直仁親王生誕の一七〇四年は本朝では江戸幕付開府の百一年目で、元禄十七年が宝永元年に改元された年である。当時、ワンワールドの西極ではスペイン・ハプスブルク家の最後の王カール二世の後継を巡るスペイン継承戦争(一七〇一~一七一四)の最中で、これを受けて北米でも英軍と仏・西軍の間でアン女王戦争(一七〇二~一七一三)が戦われていた。
     これと期を同じくして、ワンワールド東極では南北朝から始まる伏見宮系の御花園王朝の交代が謀られ、新井白石の建言で享保三(一七一八)年に東山天皇の第六皇子直仁親王が祖父霊元上皇から永世親王閑院宮の号を賜り、将軍徳川吉宗から所領一千石の献上を受ける。
     その王子典仁親王が、後嗣なく崩御された御花園天皇の跡を継いで安永八(一七七九)年に光格天皇となり光格王朝を開くのである。
     つまり永世親王閑院宮家を建てたのは、享保元(一七一六)年に将軍徳川吉宗を紀州家から入れたのと同じ目的で行われたのである。
     ちなみに吉宗は貞享元(一六八九)年に光貞の湯殿番お由利の子として生まれ、五歳まで家老加納氏の家で育てられたが、まことは伏見宮家の一員で、そのことを隠蔽するための亊歴とみるのが合理的である。私見では、吉宗の血筋は、伏見宮は伏見宮でも、南北朝時代に欧州に渡った治仁王の末裔と観るべきものと思う。(続く)

  6. 〔2〕令和四年五月二十九日
    拙論の内容はすでに既刊の拙著で述べたからここでは略するが、偽装崩御される孝明天皇の後継がなぜ、長州藩奇兵隊士大室寅助でなければならなかったのかという点については、鍋島君の言を俟たずとも十分に述べたとは言えないと思う。
    そもそも一君万民のわが國體は、皇位に就く資格を神武天皇の遺伝子を有する男子に限るのが原則であったが、嘉暦三(一三二八)年に一大改正がなされ、皇位継承資格を大塔宮護良親王の男系子孫に限ったのである。
    これについても拙著『南北朝こそ日本の機密』に詳述したからこれ以上は控えるが、ここで明言するのは「皇位継承に際し護良親王の直系男孫であれば国籍を問われない」ことである。付言すれば皇族は日本の戸籍を有さず、いかなる外国籍にも属さない。
    さて孝明天皇の偽装崩御は、近代史を開くにあたりワンワールド國體勢力が企てた綿密且つ壮大な計画の一部で、目的は一言で言えば、本邦が世界史の大舞台に登場するための条件整備である。
    鎌倉時代以後、本邦では國體の中枢たる天皇家が政体天皇と國體天皇に機能分化し、政体天皇は自ら権威を保ちつつ大政を幕府将軍に委任してきた一方、上皇が國體を担う形であった。
    このゆえに幼くして皇位に即いた天皇がいまだ青年のうちに退位して上皇となり、父の上皇とともに國體事項を統裁するのが皇室の伝統であったが、開国に対応するには、この体制を一変して國體と政体を分ける必要が生じる。
    政体と國體の分離の端緒は古く、平安時代に生じた院政がこれである。律令制が形骸化する中で本来公領である荘園の摂関家による私有化が進むのを國體上の変事とみた醍醐天皇が延喜二(九〇二)に発令した「延喜の荘園整理令」に始まり、幾多の変遷を経て不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の没収などを行なう「記録荘園券契所」を
    延久元(一〇六九)年に発令したのが後三条天皇であった。
     藤原氏を外戚としない後三条天皇は摂関家の進める公領私物化を阻むが、その流れを受け継いだ皇子の白河天皇が退位後三代にわたり法皇として政務を総覧して「治天の君」といわれ、國體天皇の俑を成すのである。以後、天皇は祭祀にのみ関与し、治天の君が國體を総覧し政治を武家政権に委任する形を取ってきたが、十八世紀の半ばを過ぎ、行詰まった国際政治は、日本の開国を強く求めるようになった。 (続く)

  7.  〔1〕
     わたしの洞察史観のもっとも古い門人の一人鍋島直亮君が、NOTOという手段を用いて自身の見解を発表されるという。
     鍋島君は「大室寅助が明治天皇になったが、候補者は他にもいたのに、なぜ大室寅助に絞られたのか、その疑問を解いた」と謂うものである。その内容を送信してくれたので、早速開けようとしたが踏みとどまったのは、思う所があったからである。
    孝明天皇のあとを継いで明治天皇となったのが、皇太子睦仁親王でなく長州奇兵隊士大室寅助であることを、日本史学会はいまだ認めることができないが、これは絶対的真実で、日本近代史の最大のテーマである。
    明治天皇交代説を言い始めたのはわたしではない。公開された歴史論としては、弁護士鹿島昇氏が平成五年に発表した『歴史 如何に解読すべきか』で主張した「孝明天皇暗殺説」が最初である。
    伊藤博文の孫の伊藤満洲雄先輩が、鹿島説に対する見解を求めてこられたのは平成七年頃で、これに応えるべく、わたしは幕末維新史の研究を始めたのである。
    その後の経緯は省くが、わたしの結論は、鹿島説は誤りで、真実は「孝明天皇は偽装崩御され、皇太子陸仁親王は大室寅助と交替して國體天皇となられた」というものである。(ここまではFBで述べました)

     
     
     

  8. 「天皇とワンワールド」を再読しました。刊行時に読みましたが、「京都皇統と東京皇室の極秘関係」をも読んだ今では、たいぶ自分の受け止め方が変わった気がしました。

    国譲り神話にあるような皇統の入替えや鼎立とその目的を、ワンワールドの東極である日本皇室は、古代から脈々と昭和皇室と現在に至るまで引継いでおられるのだと理解でるように感じられました。

    それはそれは古代から企業秘密のごとく極秘関係であり、現代も然りでありますが、極秘なので欠史・不在とされかねない無言の事跡の数々に、落合先生の入念な洞察によって触れることが出来、この平凡人にもようやく実感する事ができてきたようで、それはまた、私だけでなく皆ができる時代に突入した事ではないかと思うと、感謝感激の気持ちを抱かずにはおれません。

  9. 最良の読者から「京都皇統と東京皇室の重大秘密」に対する読後感を頂きました。
    簡潔で達意の名文なので、ここにご披露させていただきます。別所・安楽寺・極楽寺・薬師堂に関する情報を頂き、大変意を強くしました。このようにわが洞察史観を裏付ける情報がありましたら、諸士よ、ぜひ投稿してください。

    紀州文化振興会 落合莞爾先生
    今回で3回目のメールを差し上げます。
    「京都皇統と東京皇室の極秘関係」を購入してだいぶ時間がたちましたので感想などをご報告せねばいけないと思っておりました。前回のメールにおきまして落合先生より「この著に追記した事項を読めば國體史観の概容が判る」との仰せがございました。しかし私にはかなり難解な部分が多く、その仰られました第十二章を含めて第十章から第十二章なかでも仏教について述べられたところなどは、落合先生の宇宙のような知識の真髄を著わさたものではないかと感じ、私のような門前のはな垂れ小僧にはとても理解などできるものではございませんでした。
    しかし勉強させて頂きましたのに何もお伝えしないのはご無礼と思いました。私は日頃から分をわきまえて生きられたらよいと考えているので、ここは見栄を張らずにありのままを読書感想文として落合先生へご報告しようと考えました。まずはじめに落合先生へご報告したかったことは、私のような学歴を持たず何の素養も持たないものが落合・吉薗秘史シリーズや「京都皇統と東京皇室の極秘関係」を通じ落合先生より真実の歴史を授けて頂きましたことにより、今までの自分には無かった大変に自信を持つことができました。心より感謝申し上げます。
    さっそく「京都皇統と東京皇室の極秘関係」の読書感想文に入ります。本を開くと文章を読むよりも先に、どうしても多くの興味深い古写真へと目がゆき、写真とその部分の落合先生による翻字と解説文を読みました。30ページから32ページの辺りは藤田嗣治氏が「興味をそそる写真があるねえ」といいその写真の中の人物をスケッチしたとあります。また持ち合わせの木炭で手洗いから調達した紙へ描いたとあります。まず第七図の「兄ノ宮」というタイトルのスケッチと第八図の高松宮様の写真をみまして大変に似ていると感じました。耳の付き方や目鼻立ちいわゆる下々の言う「あぐら鼻」など特徴がとても良く描かれています。私は目を寄せてこの第七図のスケッチをじっくりと何度も眺めたのですが、紙から顔が浮き上がってくるように見えたのです。特に宮様のお顔の向かって左側である右耳の部分が、どうしても何度見てもクッキリ立体的に浮き上がって見えるのです。木炭の欠片でこのように描けるものなのだと、腕のある絵描きの画力を知りました。不見識な私は、幼い一休禅師が泣いた涙で壁に描くネズミが飛び出すのをお師匠様が驚くとんち一休さんを思い出しました。第五図のトヨノ様は、隣の見合い写真のようなすましたお顔ではなく、第十九図での隣に並ぶやす子様へ微笑みかける愛嬌のあるお顔がとても似ていると感じました。第十図の静山尼は高貴なお顔で下の出版物の写真とは目がよく似ていると思いました。私は藤田嗣治氏が現代にどのような絵画を残しているのかを知らずまたこのようにスケッチしたものをじっくりと眺める機会もありませんでした。しかし今までに落合先生の発掘した「周蔵手記」や今回新発見の「別紙記載」を落合先生が公表してくださいましたので、藤田嗣治氏の國體奉公衆としての新たな一面「極秘の重要事実」を知ることができました。「周蔵手記」では互いに素顔を知るまでは暗号名ケネル氏として周蔵氏と通信し、また当時のフランスから満州で起きた事件の真相を知るために長い船旅を経て帰朝することなどからもその課せられていた任務の重要さが判りました。これまで私は画家として藤田嗣治氏という名前と中学の美術教科書に載る顔写真の独特な風貌を知るだけでした。その風貌からはとても國體任務に励む奉公衆であったなどと言うことは窺い知れませんでした。私は今回の落合先生が明らかにされた藤田嗣治氏の真実の姿ではなく、むしろ当時であれば非国民であったろうと考えていました。冥土の国士藤田嗣治氏に対し合掌し伏して失礼の段お詫び申し上げます。私は街中を大音量の音楽で街宣してまわるような団体などはとても受け入れられず、目にすることもいやです。しかし日本のために命がけで戦ってきた先人のことを知ると胸の熱くなる思いがあります。
    またこれまで昭和天皇のご兄弟のお名前を知るのみでしたが、今回はご兄弟の皆様がどのような血統にお生まれでいらっしゃるかなどを知ることができました。政体天皇・國體天皇もようやく判ってまいりました。
    あと今回は特に満州についての「京都皇統と東京皇室の極秘事項」における落合先生の解説文を読み、満州と言う国の成り立ちそして支配した民族の遍歴をよく勉強することができました。今の中華人民共和国の正体も勉強できました。特に落合先生の解説された「武力による征服でなく難民の流入による浸食ですが、広く見ればこれも戦争の一形態で、人民を武器とするものです。この人民兵器が」と続きます解説文を読みまして、恐ろしいものを感じました。日本は移民や難民問題などに消極的だと批判されることがあるようですが、歌の文句のなまじかけるな薄情けとの例えのように、難民支援など生半可の覚悟でできることでは無いのであると考えました。また辛亥革命は満漢の共同作業だったという真相や、満漢分離を実現したのが日清戦争であったことなどを教えて頂きました。また貴志彌次郎少将と張作霖の写真を見て、私にはまだその根底にある深い意味までは理解できぬのですが、傍若無人の下々から一筋縄ではゆかぬ馬賊の頭目までを懐柔せねばならなかった貴志少将のそのご心労は判る気がしました。これまでの私は、劇画の虹色のトロッキーや船戸与一氏の長編小説あるいはいわゆるムック本の満州の街角を写す古写真からの知識で愚かにも何かロマンのようなものを感じていました。しかし落合先生のこの満州についての解説を読み学び深く理解することができました。
    また落合先生が八角形の建築物について言及されていらっしゃることと、さらに落合先生のご友人の本願寺忍者斉藤敏一郎助教授の安楽寺・極楽寺・薬師堂の3者は関連しているという説をとても興味深く読ませて頂きました。と言いますのは、私の父は信州別所温泉の生まれですが、婿養子に出て信州を離れたため、私にとっては別所温泉がいわゆる田舎のじいちゃんばあちゃん家で休みにはいつも遊びに出かけていました。その別所温泉に安楽寺という寺院がありそこには国宝の八角三重塔がありました。また別所温泉の大湯集落には薬師堂がありました。また昔の距離で1里ほどの前山という所にある中禅寺にも信州最古といわれる薬師堂がありました。ただ別所には極楽寺といわれる寺院は無かったです。上田市内に広げればは数件極楽寺はあるようですが関連があるのかは判りません。八角形という造型を学びたいと感じました。
    ここまで長々とまとまりの無い読書感想文を書き連ねてしまいましたが。無学の愚か者ゆえどうかお許しください。
    落合莞爾先生 これからも私にたくさんの真実をお授けください。どうぞよろしくお願い申し上げます。
    これからもお元気にお暮らしください。  
                       ●●●●

  10.    藤房鏡考『1』
            
     前書
     高松宮妃殿下(京都皇統代)の舎人栗原茂氏が和歌山へ来たとき、和歌山市内を案内したことがあった。あれから十年は過ぎたと思う。
     その折に加太春日神社の前を通ったら、舎人は鳥居の奥に見える小綺麗な社殿を指して、「ここに皇室のファンドが入ったと聞いている」と言った。さすがに驚いたわたしは、脳中に様々な考えが浮かんだが、敢えて反問しなかったのは、こういう場合は、「そうですか!」と聞き流す恰好をすることを、かねてから決めているからである。
     舎人は問えばかならず何かを答えてくれるが、本気で伝える気ならば、もっと詳しく教えてくれるはずである。だから、「今回はここで止めたな」とみたわたしは、やがて必ず来る次の機会を待つことにした。
     その機会は二、三年後にきた。「加太の春日は、皇室にとって重要なお宮で、香淳娘時代に何度もお参りされた」と言われたのである。「なぜ伏見宮家から出た香淳さんが加太の春日に?」と思ったが、このときも反問しなかった。
     成甲書房の田中亮二氏の勧めで著作を始めたわたしが、初刊『金融ワンワールド』に続き、二冊目の『明治維新の極秘計画』を発表したのは、平成二十四(二〇一二)年の秋であった。その直後、第三の機会が来た。
     京都皇統代から栗原舎人を通じてわたしに伝えられた「古代史伝授」の中に、それが出てきたのである。「古代史伝授」とは平成十八年頃から始まったもので、京都皇統代が日本史の秘事を、あたかもジグソー・パズルのように断片的な章句で教えてくださるのであるが、その中に、「護良親王と香淳皇后良子の“良”は同じ意」という章句があった。「どちらも“ナガ”と読む」とのことかと思った。
     以前の古代史伝授で「久邇宮は南朝」と言われたことがあったが、訳が分からないため黙っていたが、今回は反問した。久邇宮は伏見宮から出た世襲親王家で、本家の伏見宮は崇光天皇の皇子栄仁親王の王子貞房親王から始まる。貞房親王は、どうしたことか「御父不詳」とされているが、ともかく「北朝」とされているのではないか。
     わたしのこの反問に答えて、「それが実は南朝の出なのです」という舎人に、わたしは追い打ちをかけた。「つまり、南朝の血筋の貞房親王が北朝に入った、ということですか?」と問うと、あっさり「その通りです」と答えられて、わたしは肩の力が抜けた。
     このときから京都皇統代からの「國體秘事伝授」が新たに始まった。これ基にした洞察により南北朝の真相をまとめたわたしが、これを世に明らかにするために著したのが『南北朝こそ日本の秘密』で、発刊は平成二十五年の春であった。
     以来、「國體秘事伝授」をもとに、わたしが洞察した日本の秘事は数えきれない。どの一つをとっても国史学上の新発見であるから、それぞれが博士号の一、二に値すると思うが、そんなことはこの際、どうでも良い。
     國體参謀においては古来、必要があって歴史を捏造することがあった。その場合、心ある後人が現れて偽史を修正することを予想し、そのための糸口を残しておくのを絶対的義務とした、と聞く。
     わたしは、『纂輯御系図』の「貞房親王御父不詳」と『中山忠能日記』の「寄兵隊天皇云々」が、まさにその例であることを発見したが、詳細は既刊の拙著に書いたから、ここでは述べない。前者は落ち着いて読むと、

    貞成親王でなく、西御方の父が不詳、と読めるから別に問題でもないが、それでも感覚的に引っ掛かる所があり、それも計算の内と思われる。
     ともかく、万里小路藤房こそは、「大塔政略」によって南北朝時代の歴史捏造を行い、その当事者になった史上稀有の人物であることは間違いない。加太春日神社伝来の藤房鏡こそ、その物証なのである。
         令和二年元旦 南光房爾應(落合莞爾)     
      (続く)

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